防災訓練と苦笑い
朝、スタジオに入る直前。
「24階で火災発生したため、誘導員の指示に従って、非常階段で1階まで降りてください」というアナウンス。
「24階なら、階数的にエレベーターでも大丈夫じゃないか?」と思って9階まで下りると、他の人たちは、普通にエレベーターを上っていく。
これは連絡系統が行き届いてないのか?
それとも、もう収束したのか?
警備員さんに「皆、上っていきますけど大丈夫ですか?」と聞いてみると、「ああ、防災訓練です」とかなりの苦笑いが返ってきた。
防災訓練って難しい。
これって訓練として機能しているんだろうか?
それとも聞き逃しただけで、アナウンスの最初に「防災訓練です」とか付いてたんだろうか。
関係あるかどうか分からないけど、そういえば、防災スクラムっていう看板が立てられてたっけ。
朝4時に起きて、朝7時に外に出る。
今日は淀屋橋まで歩いた。
午前中、出社前に10000歩を稼いだ。
早足で歩いていると、途中で足の中で何かが消えて、速く歩けなくなる。
もっとたくさん歩けるようになったら、もっと色々な場所まで行きたい。
プログラマに必要なのは美的感覚だ
偉大なプログラマは、コードに対して美的感覚を持っているという。
美しいコードとは何か?
それを言葉で定義しようとしても、たぶん無駄だ。
言語表現しようとすると、あまりに情報量が膨大になり、語り尽くせない。
そもそも、言語表現が難しい部分を委ねるものこそが、美的感覚なのだから。
それを瑣末に定義しようとするのは本末転倒だと言える。
そういえば、昔のことを思い出した。
僕が
「shebang に bash じゃなくて sh を使うのには、何か理由があるんですか?」
と聞いたとき
「bash の shebang が美しくないから」というようなことを答えた先達がいる。
彼もまた、美的感覚を持ったプログラマだ。
(ところで自分といえば、まだ山の麓で遊んでいるだけ。上の方にはどんな景色が見えるんだろう)
仕事中に疲れ果てた時、5分間の瞑想をすると、絶大な効果がある。
仕事が忙しい日の午後に、たまに訪れる、どうしようもない疲労。
体が動かなくレベルの。
それは空腹のせいでもなく、眠気のせいでもなく、決して対策が取れないわけではなく、脳のせいなんだなということを、最近理解した。
たった五分間で良い。
これに気づず、人生損していたレベルだ。
人に分かりやすい文章を書くことで、自分の考えも整理することが出来る。 (テキストでダックタイピング)
なので直感とは逆に、多くの場合、決して追加コストがかかっているわけではない。
むしろ最終コストをぐっと抑えてくれる気がする。
メリット
- 自分の考えが整理できる
- 自分のやり方が間違っていれば、文章を書いている間に気づくことが出来る
- いつまでも同じコストがかかるわけではなく、文章での伝え方もどんどん上手になってゆく
- なおかつ他の人にも優しく、周りにかけるコストを減らすことができる
たとえば
- gitのコミットメッセージを書く時
- GithubでDescriptionを書く時
- チャットツールで連絡を取る時
すべてが練習になる。
Github上でのレビューはコード理解の入り口にすぎない
今まで「Github上だけでレビューが完結するのが理想」という意識がどこかにあったけど、あくまでGithub上でのレビューは、全体の確認というか、参考程度にとどめた方が良いのかもしれない。
(もちろんモノによるが)
「レビューを繰り返すうちに、Github上でのレビュー力も、いつか上がってくるはず」と思っていたけれど、なんだか違う気がしてきた。
それよりは手元のエディタでコードを読んだり、動かしたり、他の人に質問したり、図を描いたり、理解のボトルネックを見つけたり、調べ物をすること。
そういうもの全般がレビュー力につながっていくんじゃないだろうか。
特にコードというものは色々な手をつくして、色んな武器を使って理解を進める必要がある。